思ったよりも検索で来られる方が多いこちらの記事。
ファッションとは単一的なものでなく、複合的、且つ、個性的なものだと考える。
ゴルフのドレスコードであるポロシャツは元々スーツを着てプレイするところから始まっているのであるから、紳士なスポーツだと思われている。
また結婚式でのファッションとは個性を求めるものでなく、予め決められたルールに則った服装をするのが好ましく、奇抜な衣装などはキワモノ扱いされる場合がほとんとである。
個性がない記事を見に来る人、個性がないと煽る人、雑誌=ファッションだと考えているのであれば少し考え方を見直した方が良いかもしれない。
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他人と違う表現をしたければまずは本流を理解する。
普段着でスエット上下にキティッパ(サンリオキャラクターのスリッパ)の格好の田舎者の姿をすることを想像することができるように、服装というのはその人の生活レベルや考え方を他人に開示するのに良いツールだと思う。
頭を良く見せたければ、少し凝ったフレームのメガネをかけたり、髪型をおとなしくセットするように心がけたり。
反対に力強さを感じさせたければ、首から太いアクセサリーを纏い、腕の太さと比較して大きい腕時計をつけたり。
自己表現の方法は様々。
こういった大きな分類で自分を語るというのはそう難しくないように感じる。
だからこそ、ファッション誌というのはジャンル別に分かれているのであって、読む年齢層にも違いがある。
ファッション病は対外的発信力が欠ける人が陥る
例えば、スティーブジョブズはプレゼンをするとき必ず黒のシャツとジーパンであるし、それを正装であるとしている。
普通の人間がやっていたら余程ファッションに興味がないか、ジョブズ信者として揶揄される対象になってしまう。
彼が着るとお洒落にみえるのは偉業と功績がバックボーンにありその発言に厚みが増すからで、禅の精神から学んだと言われているシンプルこそ真理ということを大多数の人間が知覚しているからである。
人の後ろにあるもの。
私たち、大衆心理が考えるファッションというのはここと対極の位置にいる。
バイクの歴史から考えるファッション(流行)
時代は循環していることをご存知であろうか。
ここでバイクの話をする。
昭和、と言っても私の父親がバイクに乗っていた時代というのは、当時ナナハン(750cc)のバイクを乗るために必要な免許である、「大型自動二輪免許」を取得するのが非常に困難な時代の話。
大型自動二輪免許が一種のステータスであり、それ以外に乗る方法とは法律を破る以外になく、当時のCB750であるとか刀1100であるとか、羨望の眼差し。
父親の古い写真を見ると確かに大型乗ってる人が少ないのはわかった。
大型試験というのは俗に言う一発試験のみで取得するのが超難関ということが起因しその時代に流行っていたのは400cc以下の今でいう「普通自動二輪免許」で乗れるバイクだった。
400ccのバイクが流行っていたのだ、そこからレーサーレプリカブームが到来し、排ガス規制で一度終焉を迎えるのであるが、最近は大型バイクと小型バイクの二極化が進み1000cc以上の大型と250ccのレーサーレプリカにまたスポットライトが当たっている。
http://news.mynavi.jp/news/2016/07/28/234/
バイクブームが去ることで死亡者数が減ることはいいことなのか悪いことなのか(世界グランプリでは日本車が常に1位)はさておき。
ヤマハが作っているバイクはV-MAXという2リッター200馬力200万とキリの良い数字をコンセプトに作ったらしいのだが2リッターにしなくても200馬力に到達してしまったため、排気量はそれより少なくなっている。
1990年代初頭まではやっていたレーサーレプリカブームが再度到来していることは、市場生き残りをかけたメーカたちのイノベーションであり、排ガス規制で面白みのなくなった250ccバイクの今後を左右するだろう。
バイクであれ、車であれ洋服であれ、流行りや廃りというのは循環している。
今流行っているものは20年後もまた流行る、このことから血相変えて流行に流されなくても良いんじゃないか?と私は思う。
服は消費物
エンゲル計数がある通り、食費が家計に占める割合、というのは大きくて、それもそのはず、衣食住は人間が生活する上でとても重要。
食も消費、「住む」ことで言えば家の耐久年数は決まっているのだから消費、服も当然消費。
当たり前だが、良い服もいつか捨てる(もしくはリセールする)のだから消費するものに常にお金にかけることはナンセンス。
うん十万うん百万するブランド物を購入するというのは、私たち生活水準から考えると無謀だし、一般的に貧乏人の生活圏にいる人は富裕層(年収1億以上)からすればやはり貧乏人なのであるからして、お金をかける必要はない。
さらに言えば、食事には金使いますという人は、外食三昧で寿命縮みているし、食費削ってオサレを目指す若者は前者とある種共通する部分があると言える。
このことからたくさんのファストファッション購入する、世に言う流行にしがみついている人間はあまり利口であるとは言えない。(ちょっと暴論か)
インターネット技術の革新で他人と違う服を着るということは難しくなっている。
パリコレを見るとそれもわかるのだが、もうネタ切れ状態。
服装一つで「他人と違う」を表現する手段はもうない。
ファッションは方向性を示すもの
冒頭で記載した通り、私の考えるファッションとは自分がこうなりたい、こうありたいということを他人に表現するものであって、同一的な群集心理に乗流でなく、自分を表現するものであるべきと考えている。
皆右に倣えの世の中ではつまらないし、個性がないと揶揄されるのはそう言った見方によるものだと感じる。
沿わせるくらいでよくないか?
ファッションを考えるべきは電通ではなく、個であるべきなのだ。
自己発信する方法
自己発信する方法に最適な手段はリアルでのコミニュケーションである。それは、人に思いや考えを伝えるとき、言語よりも非言語であると昔から言われている。
優れた人間であれば、どんな服装であったとしても、奇抜やクールだと賞賛されるのであるから、見た目ばかりきにする必要はない。
仕事に打ち込み、友と戯れ、恋人とデートする。
そうして自分を他人から評価してもらい、自分らしさというのを構築すれば自ずと自分が着たい服装というのは固まってくる。
まずは他人からもらう、「自分らしさ」をフィードバックして服を選んではどうだろうか。